呪術廻戦
追い込まれて人間らしくなる宿儺。なんとなく好き。
そして、裏梅は何だったんだ…!
あかね噺
引き算の美学、素晴らしい。
何も足さないから、観客に想像で補完させる芸。
そしてこれは、私が大好きな「漫才」にも同じ事が言えますね。
例えば、コントの世界は見えている世界が全て。
つまり、小道具や背景など、全てを用意する必要がある。例えばバットやグローブなど。
それらを用意できれば、説得力は大いに増し、観客の没入に繋がる。
逆に、用意できないものを「ある」事には出来ない。
例えば、龍など架空の生物。
コントの世界は見えている世界が全て。
龍が実在しない以上、用意することは出来ず、したがって龍を使ったコントは出来ない。
まあ、ダンボールなんかを組み合わせて、龍のオブジェを創り出すなど、うまいことやる方法はある。
……が、この方法にはリスクがある。
要は、小道具がチャチかったら没入感を著しく削ぐのだ。
皆さんも、お笑いのネタを見てて「この芸人の小道具、なんかチャチいな」と思って、集中出来なかった経験はないだろうか。
コントとは、
道具を用意できれば無条件の説得力に繋がるが、
用意できなければどうしようもない。
観客が「見える」かどうか、ここが大事なのだ。
一方で、漫才は何の小道具も用いることができない。
言葉で全てを表す必要がある。当然、表現力が問われる。
が、表現さえできてしまえば、どんなものも生み出すことが出来るのが漫才の世界。
コントでは説得力に欠ける龍の存在も、漫才の世界では存在できる。
現実ならあり得ない場面転換も、漫才の世界では可能だ。
例えば笑い飯の代表的なネタである奈良歴史民族博物館は、コントでは実現できない。
出来たとしても、非常に手間と時間と費用がかかる。
動く人形、博物館→土器の採掘→学校という位置や時代の転換、そして場面転換の頻度など、
これらは小道具どうこうで補えるものではないからだ。
全ては観客の想像力により成り立っている。
小道具で作ればチャチくなる龍も、
観客に想像させてしまえば絶対にチャチくならない。
想像とは、最強の小道具なのだ。
とまあ、長々語ったが、
志ぐまの引き算の美学は合理的であるということを言いたかった。
見せるだけが能ではない。
漫画でも同様。
コマの中を書き込めば、読者に伝わりやすくなるとは限らない。
むしろ見づらくなるケースも多いら、
逆に、必要なものだけを残して、余白に想像の余地を託すことも大事なのだ。
サカモトデイズ
ムショ送りまでの速さ、これこそがサカモトデイズの小気味良いテンポに繋がっている。
ただ、シン達が修行のためだけに自ら激ヤバなムショに行くのは、微妙に納得しづらい。
脱獄の目処が立っているならわかるけども。
刑期10年で、しかも中のイザコザで死ぬ確率が高い、と前もって言われているから、余計にそう思った。
逃げ若
後醍醐天皇がワードセンスの一点で武士の支持を得ているのは面白いですね。
そういうセンスは大事。
なお尊氏
願いのアストロ
最初の数話は大丈夫か、と思ったけど、
ここ最近のヒバルはかなり好き。
主人公してる。
ルリドラゴン
ツノを折る事が、痛い目を見せることにどう繋がるのか気になる。
彼女らに罪悪感を抱かせるとか、あるいは周囲の同情を買うとか?
痛い目とは微妙に違う気もするな。
僕とロボコ
これが令和のToLOVEるですか?
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