後醍醐天皇とは
第96代天皇。
長らく鎌倉幕府に抑圧されてきた朝廷のトップであり、尊氏による「神速の謀反」のおかげで、天下に返り咲いた。
その働きを評価し、高氏に名前を一文字与え、尊氏とした。
当初は尊氏に対し厚遇しようとする場面があったが、
彼の野心を感じ取ってからは、少しずつ警戒を強まるようになっていく。
特に後醍醐天皇の息子である護良親王に関する出来事で、「対尊氏」は決定的に。
人格
感想を一言で告げる場面が多く、
例えば厄介な政務が積み重なった際には「めんどい」と放棄した。
なお、後醍醐天皇の改革政治「建武の新政」は一年も立たないうちに綻び始めており、
彼が作った雑訴決断所(民事裁判所)は連日クレームの嵐に見舞われている。
帝のお気に入りの公家や武家には手厚い褒美が与えられる一方で、大半の武士は冷遇か放置。
現場を見ない政策ばかりを打ち出した結果、民の期待は失われていった。
ただし、全く何も持たない人間かというと決してそういうわけではなく、むしろ高い能力を有しているからこそ、全てを自分で決めたがる癖がある。
なにより、比類なき覇気とカリスマを備えている。
敗戦により自信を喪失した清原が「我が清原家は元々下級貴族なのに、どうして私を国司に」と尋ねた際は、
「朕が最も愛するのは家柄ではなく気概だ」と彼のことを認めた。
また、初めて会った際に重圧で震えていた楠木に対しても「汝は朕の夢を見た。さあ、次は汝が朕に夢を見る番だ」と声をかけた。
帝の覇気が乗り移ったように、多くの貴族が慣れない武器を持ち、命懸けで戦場に立った。
楠木曰く、かつて幕府の追っ手から逃げ回っていた時の方が、強く格好良かったとのこと。
天下人になり、御簾に隠れて自分を大きく見せようとしてからは、弱くなってしまったようだ。
楠木や清原国司、北畠顕家など、多くの人間に敬愛され忠義を尽くされている。
ワードセンスに優れ、粋な名前を与えることで多くの武士を喜ばせていた。
上述した通り、能力、カリスマ、独創性、覇気、行動力、ハングリー、全てを持ち合わせた破格の天皇。
しかし、帝というしがらみにより、その真価を発揮できずにいた。
もし現代にいたら、例え貧困の底からでものしあがっただろう、と解説されている。
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