東京五輪の開会式にて行われた、「テレビ局のクルー」演劇。
あの場面は総じて難解だが、今回はその真相に迫る。
「あれは…テレビ局のクルーでしょうか?」
「そのようですね」
演目の合間の繋ぎの役割を担っていることはわかる。
そして、恐らくは「テレビ局のクルー達によるドタバタコメディ」ということなのだろう。
だが、わかるのはここまで。
具体的にどういったやり取りが行われているのか、
何を伝えたかったのか、
どこを面白がってもらいたかったのか、
これらがことごとくわかりづらい。
サイレントという事を差し引いても。
「面白い」「面白く無い」を評価する以前に、
意味と目的がわからないのだ。
笑いを誘うような作りでは無い。
かといって、感動させるような作りでも無い。
作り手の目的がわからない。ここが一番の問題点である。
そして、そんな目的不明の産物を五輪の開会式で披露する理由も更にわからない。
芸術作品のように、見る人それぞれに解釈を委ねた、ということだろうか。
となると、深く考えても答えは出ないのかもしれない。
ちなみに、当時ネット民により考察された内容がこちら。
考察①
891 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2021/07/25(日) 18:46:05.81 ID:Rh1xA+NI
ポイントはなたぎの位置と箱
箱が何の象徴かというのがポイント
イコノロジーとしての箱は「心の中・秘密・可能性」の象徴
この場合は可能性と解釈するのが正しいだろう
それを取材しないクルーたち
2度目の登場もそう
つまりクルーたちは狂言回しの役回りなわけ
そして二面性
角度を変えると違って見えるものがあるよねって
それが物事の多様性への道標にもなる
ダイバーシティとインクルージョン
考察②
820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2021/07/25(日) 16:57:53.36 ID:7re81iqG
オリンピック開会式なだぎ演出の持論。
場面転換に使われたブリッジである。
一度目は宣誓→競技PV→なだぎ→箱ロゴマーク
箱はPVの間に用意されていて突然始まるよりブリッジがあった方が視線や意識誘導がしやすかったのだろう。
無観客が故にカメラワークで立体感を出したかったのかも。
寸劇としてオリンピック開会式を取材しに来たクルーがスタッフに取材しようとしていて「見るべきはおれじゃなくてあっち(箱ロゴ)だぞ」かと。
一番の問題点
一番の問題は、他の日本文化を差し置いて、一体なぜ「開会式でテレビクルー達によるサイレント寸劇をやろう」という結論に辿り着いたのか?
という点だ。
日本と言えば、
侍、忍者、相撲、マリオ、ポケモン、ハローキティ、ボカロ、折り紙、盆栽、舞妓などなど、
世界に伝わりやすい個性が色々ある。
それらを差し置いて、なぜあの寸劇に辿り着いたのか?
会議の様子を想像してみよう。
A「東京五輪の開会式、ここは日本らしく侍や忍者で行きましょう!」
B「いやいや、ピカチュウやマリオをアピールすべきでしょ!アニメ、ゲームこそ日本の強み!」
C「雅な風景をバックに舞妓が舞踊をするのも、日本らしくて良いんじゃないか?」
D「テレビクルーによるサイレント寸劇をやりましょう」
結果を見れば、Dの意見が通ったことになるわけだが、
一体どうやってA、B、Cの意見を論破していったのだろうか。
正直、Dが凄まじいディベート強者ということ以外に、勝ち抜けた要因が思い浮かばない。
日本らしさという点だけ見ても、A〜Cと比べると「薄い」と言わざるを得ない。
リオ→東京への引き継ぎ映像で見られた「伝統×近代の融合」は理想的で、
「あのテイストの開会式・閉会式を見たかった」という人は多いはず。
結論
今後も考察を深めていきたい
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